ながおかドキドキ通信


   142年前の膏薬(こうやく)は語る

(142年前に継之助が足の治療に使ったとされる膏薬【手前】と薬缶)
  「一忍を以って百勇を支う可く 一静を以って百動を制す可し」。これは長岡が生んだ幕末の英傑、河井継之助座右の銘だ。伸び伸びと生命力のあふれた継之助の直筆の書をバックに終焉の地福島県只見町から借り受けたゆかりの品、薬缶と膏薬が「河井継之助記念館」=長岡市長町1に展示されている。
 戊辰戦争武装中立を願った継之助だったが1868年、小千谷談判の決裂で開戦を迫られた。一度は城が落城したものの奪還に成功。同年の7月25日(旧暦)、新町口の戦闘で足に銃弾を受けて旧下田村(現三条市)の吉が平から戸板に乗せられて八十里越えを越えて会津に落ち延びた。八十里越えとは山道の一里が八十里にも感じるほど急峻な道を指して名付けられた越後と会津を結ぶ道。
 この山道を戸板に運ばれながら継之助は同年、8月5日、現只見町叶津にたどり着いた。そして同16日、同町塩沢で42歳の生涯をまっとうした。
 その塩沢にある記念館から借り受けたのが薬缶と膏薬だ。薬缶は素材は銅製と思われる。形は現在と何ら変わらない。隣に展示されているシャーレーとおぼしき容器の中に142年前、継之助の傷に施した膏薬の色に驚かせられる。ピンク色でもなくオレンジ色でもなくその中間色の薬が膏薬だった。説明のキャプションには「真砂青」と記されていた。
 真砂青を同館の学芸員とおぼしき女性に意味をたずねたが分からなかった。シャーレーの中にあった142年前の膏薬を見ていたらピンク色ともオレンジ色でもない薬を継之助の傷ついた足に施したと思う時、戊辰の役後、会津ともに賊軍の汚名を着せられて飢餓に苦しみながらも町を復興させたこの町の不屈の闘志の色に見えて来る。
 同展は4月15日まで。【問い合わせ】同記念館館Tel0258(30)1525。