ながおかドキドキ通信

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     大相撲大阪場所開催中止決定!!
       底の見えない八百長疑惑
 きょう(6日)、日本相撲協会は緊急理事会を召集し、八百長疑惑で揺れる現状で大阪場所開催云々を論議し、結論は開催中止に踏み切った。テレビに流れた会見で放駒理事長(元大関、魁傑)は「今のままではファンの理解が得られない。八百長疑惑調査が難航している。膿を出し切るまでは(場所を)開催すべきでない」と大阪場所中止に至った内容を説明していた。きのう(5日)のニュースでは同協会の外部の識者で組織する特別調査委員会は「力士の受け応えがアイマイで判断できない」と調査が難航していることを臭わせていた。さらに石原慎太郎東京都知事は4日の定例記者会見で「私の知っている限り、相撲はそういうもの。昔から当たり前のこととしてあった」とコメントしている。
 きょうのテレビの報道系の番組は朝から相撲協会八百長疑惑一色だった。中でもテレビ朝日のSフロントラインの中でスポーツジャーナリストの玉木正之の発言は八百長が過去にもあったことを認めつつも「所詮、三下のフンドシ担ぎがやったこと。八百長をやった当人同士は星の貸し借りをやっただろうが観客も含め他の人は誰も迷惑をこうむっていない。その昔の江戸相撲の時は対戦相手の心情をおもんばかって負けてやったこともあった。相撲とはそういうものだ」という聞き捨てならない暴言を吐いていた。元関取の竜虎もこれに同調していた。要するに大相撲も興行の世界だから八百長のような無気力相撲があっても当然だといわんばかり。
 相撲が神道の儀式から出発していることは次第に一般ファンにも知れ渡ってきている。横綱の土俵入りなど大地に潜む悪魔を鎮め五穀豊穣を願った神様の前でのチカラビトの儀式の典型だ。神様への神事から見せ物(興行)へと発展。さらに現代においては勝負を競うスポーツとして一般的に定義されている。玉木のいう「相撲は神事なのだから八百長みたいなのはあって当然」のような発言はオカシイ。何故なら神事から江戸勧進相撲へと発展した時代にプロ野球、サッカー、プロレスといった見世物は他にあっただろうか。江戸市中の一部の観衆を相手に興行を敢行していたささやかな見世物だったからこそ八百長にも等しい「人情相撲」などという笑い話にもならない逸話が残っているのだ。そんな江戸の昔とプロスポーツとして定義されている現代の大相撲を同一視することに無理がある。
 「相撲は、神様の神事から出発している日本古来の立派な文化」と八百長を擁護するような立場の識者はいう。今回のように都合が悪くなると文化といい、白黒ハッキリさせる勝負事となるとスポーツという。相撲協会が自発的に文化なのかスポーツなのかハッキリさせないから訳の分からぬ理屈がまかり通り曖昧模糊とした世界が存在するのだ。アマチュアの世界では日本体育協会が相撲をスポーツと定義し国体種目にも入れているではないか。それがなぜプロとなると日本古来の文化を継承している国技になり伝承文化として強調されなければならないのだろうか納得がいかない。
 さらにもっと納得がいかないのは八百長が今に始まったことではないことを知っていた相撲記者クラブの連中だ。かって某週刊誌が克明に八百長疑惑を追及した時、オイラは同僚の相撲担当記者に聞いたことがあった。「週刊○○○に書いてあることは本当なのか」と聞くと相撲担当記者は「全部本当だ。俺たちは記者クラブに入っているから本当のことが書けない。週刊○○○は俺たちから聞いたことを基に書いている」とシャアシャアと話していた。某国営放送も含め相撲記者クラブに所属していた記者ならその当時、八百長があったかなかったのかくらい知っていたハズだ。それが今回のように事が発覚すると元某国営放送の相撲担当アナウンサーだったSなど大相撲の存続にかかわる重大事のような発言をして世間を騒がしている。フザケルナといいたい。何年も前から八百長が横行していることを知りながら原稿にもせず見てみぬふりをしてきたのは記者クラブに所属して相撲協会に飼いならされたお前らだ。ここで大相撲の脈が切れかかったらその責任の一端はスポーツジャーナリズムのメディアにもあるゾ。

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