ながおかドキドキ通信


 米が教える文化
 先日、親しくしている友人から新米を買った。大した量ではないが、有機栽培をしている友のためになればと思い2年前から買い続けている。買った米を米びつに移していた時、東京で暮らしていた大学生時代を思い出した。
 オイラは兄と二人で世田谷に住んでいた。それは何故かといえば伯母さんが近くに住んでいたからだった。「東京は怖い所」と聞かされていた田舎者のオイラ兄弟はせめて肉親の目が届く所に住んでいたんだろう。
 オイラのような歳の年代であれば当時の大学生の夏休みは7月から始まって9月いっぱい夏休みだったように記憶している。オイラの家は父は公務員で母は今でいうコンビニエンスストア、昔でいえばタバコから酒まで売っていた町内ご用達の「何でも屋」をを経営していた。父は農家の次男だったので他に田んぼも所有していた。
 長い夏休みも終えて、そろそろ学校にも戻らなくてはならない時に早出米がオイラちの蔵といえば聞こえはいいが収納小屋の3つのタンクに収まった。戦争未亡人ではないが戦争で好きだった陸軍将校と別れてしまった伯母さんは独り暮らしだった。「米が出来たら送ってネ」といわれていた。大学の運動部で勉強もせず暇さえあれば走って、食って、寝ることを暮らしにしていたオイラは週一回、料理も美味かった伯母さんの家でたらふく飯を食べることが何よりの楽しみだった。そんな時「何であなんジャリジャリした米を送ったの」と文句をいわれてしまった。オイラは「シマッタ」と思った。母からは「伯母さんに送る米だからていねいにタンクから出して缶に詰めるんだよ」いわれた。遊びに忙しいオイラはタンクから米をダッーと出して早々に夜遊びに行こうとしていた。ダッーと出した米はあふれて床の上に見る見る間にあふれてしまった。「マァいいや床にあふれた米をすくって缶にいれても判らないだろう」と思ったオイラはそれを実践してしまった。それが伯母さんのいう「ジャリジャリした米」だったのです。
 大学を卒業しても車が壊れたとかいう理由をつけてお金をせびり、挙句の果ては結婚する時の指輪の金もせびってしまったオイラです。そのいわくつきのダイヤの指輪は今でも守銭奴の元妻のタンスの奥に眠ってます。
 病院で亡くなる時、こんなオイラの手をとりながら「助けて」といってくれた美しく日本女性の鏡だった伯母さん。新米が届く時季になると今でも「騙してスミマセンでした」と時々、思い出します。これが57歳のバツ1オヤジとなったオイラの「詫び状」です。