ながおかドキドキ通信


 12・8真珠湾攻撃から68年
  五十六の胸像が語りかけるもの

(51年前、霞ヶ浦から生家跡地に移設された元帥の胸像)
 12月8日は、太平洋戦争の幕開けとなった真珠湾攻撃から68年目となる。空母「赤城」など6隻の機動部隊を含む30隻の連合艦隊を指揮したのは長岡市出身の山本五十六だった。
 今、日本を含め世界各国は昨年の米国発のリーマンショックで「百年に一度」といわれる大不況に見舞われている。米国は中東での戦費さえ調達できないのてはと思わせるほどの不況の真っ只中だ。太平洋戦争の戦端を開いた1946年(昭16)の真珠湾攻撃時の日本も似たような状況だったようだ。国内は不況で満州関東軍満州国から万里の長城を越えて中国大陸の奥まで戦線を拡大し物資の補給路さえおぼつかない泥沼の状況になっていた。
 石油を米国からの輸入に頼っていた日本だったが、軍艦、航空機を動かす源となる石油の輸出国に戦争を仕掛けたのだから当時の日本人の考え方は理解に苦しむ。そんな状況の中で日米開戦に断固反対したのが皮肉にも戦端となる真珠湾の奇襲攻撃を指揮した五十六だった。「人種のルツボ」といわれるアメリカ。1回でもアメリカ本土に足を踏み入れた人なら恐らく漂う空気で「トンでもなく恐ろしい国」と瞬時に理解できるはずだ。
 五十六は、アメリ駐在武官として同国で2度の生活を体験している。その折には全米の各地を訪れアメリカの生産力の凄さを実感した。当時の日本人としては極めてグローバルな考え方を持っていたから生産力の劣る日本が開戦することに反対したのだった。だからこそ開戦が聖断されると真珠湾に停泊する米国の機動艦隊を先制攻撃し、同艦隊が復活してこない内に有利な状況で早期停戦に持ち込もうとしていた軍略家だった。
 当時のフランクリン・ルーズベルト大統領は「リメンバーパールハーバー」という言葉で日本の真珠湾攻撃を「だまし討ち」といって全米国民の感情をイッキに開戦へ押しやった。その後、アメリカは生産力にモノをいわせ圧倒的な物量作戦で日本をしのぎついには勝利した。
 長岡は戊辰戦争で町が焼かれ賊軍の汚名を着せられ、藩閥政治からは疎んじられ、どんな優秀な人間でも中央に出て官僚になる道はほとんど途絶えていた。五十六は酒をたしなまず甘党だったそうだ。そして賭け事はハンパでなく強かったという。時代というものに対しては驚くほどの先見性を持ちながらも「ふるさと長岡」にはことのほか愛着を持っていたという観念的な人だったそうだ。海軍兵学校入学試験の折、試験官から「お前の信念は」と聞かれ「ヤセガマンです」と答えたというエピソードが残っている。それは戊辰戦争で町が焼かれ清貧の中から町を復興させた長岡人特有の矜持でもあった。
 日本海軍の持論でもあった「大鑑巨砲主義」から航空機の時代をいち早く読み取った五十六だが皮肉にも1943年(昭18)、4月18日、ブーゲンビル島上空で米国の戦闘機に撃墜されて戦死した。その死は、真珠湾攻撃の勝利で日本国中を熱狂させた「英雄」だったからか、大本営は約1カ月間、公表しなかったという。最近、その死についてざまな説が流布され謎をよんでいるが・・・。
 偏狭な時代でなく、たおやかな時であれば五十六も軍人としてではなくもっと違った選択肢があったかもしれない。初冬の晴れた日、ふるさと長岡の生家跡地に霞ヶ浦から建立された五十六の胸像の前にたたずむとその鋭い眼差しからは51年間、長岡市民に変わらず「世界」という大局を見据え続けていたのだろうと思ってしまう・・・。

(五十六の生家。玄関上の2階の2畳の間が五十六の部屋)