ながおかドキドキ通信


 芭蕉、忍者説に迫る!

(11月30日、TBS放映の【水戸黄門】で松尾芭蕉を演ずる堺正章)
 時代劇が大好きなオイラは、月曜日がやって来るのを楽しみにしている。それは仕事を終て一杯飲みながら「水戸黄門」を見ることだ。
 本日(11月30日)は、山中温泉がドラマの設定だった。芭蕉で著名なのは「おくのほそ道」。元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日ころ)、江戸・深川の庵から約600里、2,400㌔㍍の吟行の旅に出た。
 オイラは、今から21年前、芭蕉研究家で著名な某先生から芭蕉がたどった越後路の足跡の写真撮影を依頼された。芭蕉が越後路に入った時期から約1カ月前の7月に鼠ヶ関から撮影を開始した。そうした中で「あら海や」で知られる出雲崎の撮影を終えた。芭蕉が同地に泊まったのは7月4日(新暦8月18日ころ)。そして名句「あら海や佐渡に横たふあまの川」を詠んだ。ところが新暦で換算すると8月18日頃は絶対に出雲崎の海からは天の川は出ないことが分かった。ならば「あら海や」の句はどうしてできたかが疑問に残った・・・。
 オイラのような物書きの端くれでも書いた文章は推こうをする。一度、書き綴っても後から読むとトンでもない文章が仕上がっていることが間々ある。7月1日(新暦8月15日ころ)、築地に泊まった日が一番、天の川が出やすいとう結論に達した。築地でイメージし、推こうを重ねた結果、完成したのが出雲崎だったのではないかというのがオイラの推論だ。
 もう一つ、芭蕉は、三重県伊賀の出身からか忍者ではないかという説が巷間いわれている。これもオイラが分析した結果、恐ろしく同説の信ぴょう性は高い。例えば7月5日(新暦8月19日ころ)、出雲崎を出て雨の中を柏崎まで行った。紹介状を持って宿を頼んだ「天や弥惣兵衛」宅に断られ、アタマにきた芭蕉と河合曽良はさらに進んで鉢崎まで行って同地で宿をとった。概算だが芭蕉が歩んだ同日の走行距離を計算すると出雲崎-柏崎まで約28㌔。柏崎から鉢崎まで約16㌔。当時の北国街道は、そのほとんどが海岸線をルートにしていた。出雲崎から柏崎までは海岸線の砂浜を歩き、柏崎で宿を断られた一行は、一転、米山峠を越える山道。昼近くに柏崎に入ったとはいえ、雨の中をそれからさらに山道を登りきって鉢崎に入るとは・・・。
 芭蕉の年齢は、かなりの高齢だった。砂浜から山行へ。一日約44㌔を60歳をとうに過ぎたジジィが歩いたとすれば相当な体力と脚力だ。釤芭蕉忍者説釤はこんなところにも所以があるかもしれない。