ながおかドキドキ通信


 方言も文化だ!
  映画「手のひらの幸せ」を見て

(長岡ロケなびの機関誌【左】と映画のチラシ)
先日、歌手の布施明が書いた童話「手のひらの幸せ」をもとにした同名の映画の完成上映会を見に行った。県内オールロケというふれこみだった。ストーリーは両親を亡くした兄弟愛を描いた内容の映画。シナリオを知人から貰って途中まで読んでいて最後まで読まなくても結末は分かったので馬鹿馬鹿しくなって読むのを止めた。
 完成した映画にケチをつける気は毛頭ないが、オカシイと感じることが多々あった。まずそれは台詞だ。最初から最後までこの地方を題材にしているのであればキレイな標準語は必要なかった。ストーリーと同時代に育ったオイラたちはその当時、自分のことを決して「僕」などといわなかたし弟のことをチャンをつけては呼ばなかった。この地方の方言で台詞を話してないから見る側に訴求力がないのだ。方言も大切な文化だということを知らな過ぎている。
 制作費との関係もあったのだろうが、昭和48年当時の設定で三条駅のシーンがあった。降り立つシーンがその当時なのに何故かJRの列車で俳優以外は現在の乗客だった。オイラは高校生の頃その三条駅で乗り降りしていた。その当時の列車は、トンでもなく汚く関東地方で必要以上に乗り回され無骨な形をした電車かベンチシートで木製の列車だった。夜遅く乗る列車はその木製のベンチシートでうす暗い電気をたよりに本など読もうとしたら暗すぎてよく読めなかった。それくらいこの地方は貧しかったということだ。
 主人公が新潟大に入学して音楽部の部屋を訪ねたシーンの服装も変だった。主人公は当時の服装をしているのに周りの部員はやはり現在の服装。演出した監督は何も感じなかったのだろうか。余りにもオソマツ。時代劇であれば時代考証という人が丹念にその時代をよみがえらせている。この映画は、わずか約40年前の話だ。
 映画は総合芸術といわれている。その貴重な芸術を陳腐な演出と製作で見る人に一体、何を訴えるのだろうか。